
現在も続く、東北最古の白磁の産地
会津本郷焼は、戦国時代に会津の黒川城(若松城)の屋根に使う瓦を焼いたことがはじまりと言われています。江戸時代の初期には、藩主蒲生氏郷が焼き物づくりを保護・育成したことで、藩の御用窯として栄えました。その後、庶民が使う器の製造もはじまり、広く一般化しました。
幕末の戊辰戦争や大正時代の大火事等で打撃を受けましたが、再び立ち直り、現在も焼き物の生産を続けています。また、東北では最古の白磁の産地でもあります。

雅の技術を独自の技法で塗り上げる
室町時代に漆の木を植えることを奨励したのがはじまりで、安土桃山時代に近江から会津に移った蒲生氏郷が近江の漆器職人を呼び寄せその技法を広めます。この時から会津の漆器作りは一気に産業化されました。
その後、京都から蒔絵技術を取り入れ、着実に発達し広まった会津塗は、江戸時代中期には幕府の許可を得て、海外輸出を試みるまでになりました。明治維新の混乱で一時、産地としての力が弱まりましたが、その後再び活気を取りもどし、最盛期を迎えました。

縄文時代から残る編み組の技法
三島町の編み組細工は野草や山管(ヒロロ)、マタタビの蔓を材料として日常の生活用品として作られていました。町に残る縄文時代の遺跡からは縄や籠の編み組などが発掘されており、その歴史の古さを物語ります。また、江戸時代に書かれた「会津農書」や「伊那伊北谷四ヶ組風俗帳」にも記述があり、古くから人々の生活とは切り離すことができないものとして、今日まで受け継がれています。

伝統を継承しながら、新しい領域へ
江戸時代初期(1690年)に作りはじめられたと言われる「大堀相馬焼」。当時、相馬藩が焼き物づくりを保護・育成したため、江戸時代末期には100余りの窯元が並ぶ、東北地方で一番大きな産地になりました。
しかし明治時代になると徐々に生産者が減少し、現在では24軒の窯元が残るのみになっています。これらの窯元は300年の伝統を守りながら、若手窯元により新しい製品を作り出す努力をしています。

