STORY

戊辰戦争ゆかりの地に脈々と受け継がれる武士道、サムライスピリッツをお伝えします。戊辰戦争をテーマにした歴史漫画も現在、絶賛掲載中!

  • 鬼の副長
    土方歳三(ひじかた としぞう)
    天保6年~明治2年(1835年~1869年)

    武蔵国多摩郡石田村(東京都日野市石田)の家伝薬を副業とする豪農に生まれ、後に京都守護職で会津藩主の松平容保の庇護のもと新選組を結成。近藤勇局長の右腕として「鬼の副長」と恐れられました。 慶応3年12月王政復古の大号令が発せられ、幕府は事実上崩壊。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に突入し、土方は旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦したのです。

    土方は宇都宮城を攻め落とすも、数に勝る新政府軍に押され足を負傷、会津の滝沢本陣を目指しました。そこには藩主の松平容保や白虎隊が待っていました。少年たちは「新選組の土方様だ」と声を掛け、交流を深めたそうです。

    その一方、東山温泉で足の傷を治している間に会津若松市内の天寧寺に近藤勇の遺髪を収め、墓を建立しました。まもなく会津は激戦となり、土方たちは防戦するも母成峠(福島県郡山市・猪苗代町)の戦いで敗れ、援軍を求めて北に向かいました。その後、蝦夷(北海道)に渡り、明治2年(1869年)5月、新政府軍の函館五稜郭総攻撃において手勢を援護し、敵を食い止めようとしたところに銃弾を受け、戦死。享年35歳、最期まで徳川家に「義」を尽くし「誠」の信念を貫いた土方でした。

  • 新選組最強三剣士のひとり
    斎藤一(さいとう はじめ)
    天保15年~大正4年(1844年~1915年)

    三番隊組長であり撃剣師範でもあった斎藤一。腕利きぞろいの新選組の中でも沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客として恐れられました。生まれは江戸で、新選組の前身である壬生浪士組に文久3年(1863年)に入隊。20歳にして新選組副長助勤に抜擢されました。

    戊辰戦争における会津戦争に旧新選組幹部から参戦したのは、土方歳三の他、斎藤一だけでした。近藤勇局長は処刑され、沖田総司は療養、永倉新八や原田左之助はすでに離脱していたのです。その会津戦争で足を負傷していた土方に代わり指揮を執ったのが斎藤でした。新選組をはじめ奮闘した旧幕軍でしたが敗色が濃厚となり、再起を駆けて北上を決意。しかし斎藤だけは「会津には恩義がある」と数名の隊士と会津に残り戦い続けました。会津藩が降伏した後も徹底抗戦したため、最後は藩主である松平容保自らが説得に向かったと言われています。

    終戦後、斎藤は会津藩に仕え、その後は東京に赴き、新政府の警視庁に勤めました。その後、東京で72歳のときに死去。斎藤は「会津に墓を建てて欲しい。東軍墓地がある阿弥陀堂(会津若松市)に埋葬して欲しい」という遺言を残していました。その願い通り今も戊辰戦争を戦った会津藩士たちと共に、会津の地で眠っています。

  • 幕末越後の風雲児
    河井継之助(かわい つぐのすけ)
    文政10年~慶応4年(1827年~1868年)

    長岡藩藩士の長男として城下に生まれた河合は、幼い頃から文武に秀でており砲術や剣術、馬術などの武芸の他、陽明学など勉学にも励みました。

    25歳の頃から遊学に出河合は、江戸では佐久間象山の門をたたき、備中松山では山田方谷に教えを受けました。また、長崎や横浜では西洋をはじめ世界の動向についての見聞を深めていきました。

    39歳で長岡藩の郡奉行となり、その後も町奉行、奉行、上席家老へと出世。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が始まると長岡藩も参戦。藩の軍事総監となり、巧みな戦術と当時日本に3本しかなかったガトリング砲で新政府軍と互角に戦ったといいます。しかし、一旦は落城した長岡城を奪還するも敵の奇襲攻撃に会い重傷を負ってしまいました。指揮官の負傷により長岡軍は撤退を余儀なくされたのです。

    傷を負った河合は千数百名の藩士と共に再起を賭け会津を目指し、長岡と会津の国境にある難所八十里越えに臨んだのです。山中での野宿などをしながらようやく会津藩領の塩沢村(福島県南会津郡只見町)で休息をとり、村医の矢沢宗益の家で傷の手当てを受けましたが、只見の人々の尽力も空しく息を引き取りました。河合継之助終焉の地となった現在の只見町塩沢には「河合継之助記念館」があり、当時を偲ぶことができます。長岡藩士の菩提寺である新潟県長岡市の英涼寺にお墓はありますが、只見町塩沢の医王寺にも細骨を葬った墓があり、毎年命日の8月16日に墓前祭を行っています。

  • 民間人から幕臣へ
    大鳥圭介(おおとり けいすけ)
    天保4年~明治44年(1833年~1911年)

    播磨赤穂の赤松村(兵庫県赤穂郡上郡町)の医師の長男として生まれた大鳥圭介。 幼い頃から漢学を収め、大阪の緒方洪庵には蘭学と西洋医学を学びました。21歳の時、江戸に出て西洋式兵学や写真術、ジョン万次郎からは英語を習いました。その頃、勝海舟とも知り合ったといわれています。その後25歳の時に人の紹介で武士となり、28歳で徳川幕府の御鉄砲方附蘭書翻訳方出役まで出世。その後、幕府での要職を歴任し、33歳の時に幕臣となったのです。

    鳥羽・伏見の戦いでは、榎本武揚らと共に徹底抗戦を主張するも江戸城が開城。大鳥は、この動きに合わせ旧幕軍・伝習隊士500人と共に江戸から脱走、新政府軍と戦うために会津藩を目指したのです。

    会津に到着すると陸軍奉行・松平太郎や新選組の土方歳三らと合流し、新政府軍の進撃に備えました。会津戦争の分岐点となった母成峠(福島県郡山市・猪苗代町)の戦いでは、指揮官を大鳥が務めました。その数、800に対して新政府軍は2200。午前9時頃から始まった戦いは、ジリジリと押され、峠は新政府軍に制圧され午後4時過ぎには勝敗は決しました。

    会津落城後、大鳥は船で函館に向かいました。陸軍奉行として土方歳三らと抗戦するも明治2年(1869年)に降伏。東京へ護送されました。戊辰戦争の最期となったこの函館戦争のエピソードとしてこんな話が伝えられています。五稜郭に立てこもり「いよいよもうダメだ」となったとき榎本らは協議の末「玉砕しよう」と決意を固めましたが、大鳥が「死のうと思えばいつでも死ねる。今は降参と洒落込もうではなかか」と述べ、一同は白旗を上げたと言われています。出獄後明治政府に出仕。学習院院長や枢密院顧問官などを歴任し、78歳で亡くなりました。

  • 動乱期の会津藩を支えた家老
    西郷頼母(さいごう たのも)
    天保元年~明治36年(1830年~1903年)

    会津藩の家老は世襲制で、身分意識が強く、会津の名門九家の門閥の者しか家老に就くことが許されていませんでした。その名門の一つ西郷家に生まれた頼母は、万延元年(1860年)、家督と家老職(家禄1700石)を継いで藩主・松平容保に仕えました。

    頼母は文久2年(1862年)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言。その後も、京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、容保から怒りを買い、家老職を解任されました。

    戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、城下への進入路の一つ背炙山(会津若松市)を死守していましたが、他の進入路から新政府軍が侵攻。武士は家族を含め城内に籠城するよう指示を受けました。しかし、頼母の家族は長男の吉十郎を城に送り出した後、貴重な食糧を浪費しないよう、かつ新政府軍に捕まり恥辱をうけることを避けるために一族21人が自ら命を断つ道を選んだのです。妻・千重子の辞世の歌「なよたけの碑」は、墓とともに市内の善龍寺(会津若松市北青木)にあります。

    その後、頼母は榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦い抜きましたが最後は捕らえられ、明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で亡くなりました。73歳でした。

  • 会津藩最後の藩主
    松平容保(まつだいら かたもり)
    天保6年~明治26年(1835年~1893年)

    会津藩最後の藩主となった松平容保は、12歳の時に会津藩主松平容敬の養子となりました。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったと言います。容保は会津藩の将来を期待され、家風である「徳川家への忠誠」「皇室への尊崇」を容敬から繰り返し教わり、18歳で藩主となりました。28歳のとき京都守護職を拝命し、激動の波に飲み込まれていったのです。

    京都守護職時代には、孝明天皇にも気に入られ、「たやすからざる世に武士の忠誠の心をよろこびて」(こんな難しい時代に忠義を尽くしてくれてありがとう)という歌を贈られるほどでした。 また、14代将軍・徳川家茂の警護や、新選組、京都見廻組を組織して都の治安維持に努めました。しかし、時代の流れは…。

    15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、幕府が消滅すると容保率いる会津藩は、旧幕府の中心となって新政府軍と衝突。朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、孤立無援のろう城戦(会津戦争)の末、新政府軍の軍門に下りました。

    享年58歳。朝敵と呼ばれ、最後まで幕府に忠義を尽くした容保は幕末維新については一言も語らなかったと言われていますが、天皇から賜った御宸翰(天皇が書いた文書)と御製(天皇が詠まれた和歌)が発見されたのは容保の死後のことでした。

  • 戊辰戦争の方向性を決めた戦を指揮
    上坂助太夫(こうさか すけだゆう)
    不明

    会津戦争と並び戊辰戦争の方向性を決めた戦いの一つが、磐城平藩の攻防でした。慶應4年(1868年)、新政府軍の平潟(茨城県北茨城市)上陸から始まったこの戦いで、新政府軍を2度も撃退。半月も釘付けにした戦いぶりは総長上坂助太夫をはじめとする平藩士の奮闘によるものでした。

    磐城平藩の家老だった上坂助太夫は、当時、藩主だった信勇が平藩分領の美濃加納にある別邸に滞在中で留守だったこともあり、隠居中だった先々代の藩主で江戸藩老中も務めた安藤信正に従って新政府軍に抵抗、総監として磐城平城に籠もり指揮をとりました。その激しい攻防は戊辰戦争有数の戦いであったと言われています。

    徹底抗戦するも慶応4年(1867年)7月、磐城平城の方位を囲まれ、ついに進退窮まる状況に追い込まれたのです。上坂助太夫は「自らは城に残り、城を枕に討ち死にする」という覚悟を口にしたそうです。しかし仲間たちの「相馬で再起を期すべき」との説得を受け入れ、涙を流しながら城内に火を放って守備隊は全軍引き上げを開始しました。

    現在、激戦の攻防を繰り広げた磐城平城の威容は伺うことはできませんが、城跡に整備された丹後沢公園(いわき市平)で石垣や水堀跡を偲ぶことができます。

  • 戊辰戦争、もう一つの少年たちの悲劇
    二本松少年隊(にほんまつしょうねんたい)

    戊辰戦争に散った少年たちの悲劇は会津の「白虎隊」だけではありません。
    二本松の戦いにおいて、旧幕府軍の兵は応援兵を合わせても僅かに約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの新政府軍は約7千人。その戦況を知り、出陣を嘆願する少年たちに藩は、苦渋の決断で出陣を許可。13歳~17歳の少年たちによる部隊「二本松少年隊」が組織されたのです。

    出陣命令が下った早朝、16歳の上崎鉄蔵は、玄関まで見送りに出た母と祖母が「行ってらっしゃい」と言うと、「行ってらっしゃいではないでしょう。今日は、征きなさい、です」とにっこり微笑み、元気よく出かけて行ったと言います。 また、13歳の岡山篤次郎は、母に頼んで戎衣(戦場での着物)をはじめ、手ぬぐいにいたるまで「二本松藩士 岡山篤次郎 十三歳」と書いてもらい出陣しました「母が屍を探すときにわかりやすいように」との理由からだと伝えられています。

    しかし圧倒的な敵兵の数には勝てず、ついに二本松城は炎上し、落城。それでも少年たちは戦い続けました。負傷した高橋辰治13歳は、城の堀の中に潜伏し、敵数名が通りかかったところに斬り込んで、闘死。成田才次郎14歳は「必ず敵将の一人でも討ってから死にます」と言い、その言葉を遂行しました。

    旧二本松藩主丹羽家菩提所の大隣寺(二本松市成田町)境内には、戊辰戦争殉難者の戦死群霊塔とともに、二本松少年隊隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守と、少年隊戦死者14人の供養塔が建立されています。

  • 忠義と悲運の物語
    白虎隊(びゃっこたい)

    会津藩の武士階級は上士・中士・下士に分けられ、上士の子ども(男性)が10歳になると「日新館」という藩の学校に入学する決まりになっていました。日新館では論語などの勉学から武士としての心得や道徳まで学んだと言います。白虎隊の隊士達は、この日新館で学んだ16歳~17歳の少年達で編成されていました。

    白虎隊は本来予備隊で、城の警備が任務で実際の戦闘に出る予定はありませんでした。しかし圧倒的な兵数と武器を備えた新政府軍に次々と守りの要所を落とされ、白虎隊は味方を支援するため前線へと進軍しましたが、劣勢は如何ともし難く負傷者を抱えながら飯森山(会津若松市一箕町)へと辿り着いたのです。

    少年たちが山頂から見た光景は一面火の海に包まれた城下とお城(鶴ヶ城)の姿でした。「城下に戻り、敵と戦おう」という者も数名いましたが、17歳の副隊長篠田儀三郎が「敵に捕まって屈辱を受けるようなことがあれば、主君や祖先に対して申し訳ない。この場は潔く自刃して、武士の本分を明らかにするべきだ」と主張、この言葉に全員がうなずき、燃え盛る城下を見下ろしながら自決したと言います。

    後に、1人だけ生き残った飯沼貞吉によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。隊士の墓がある飯森山で春と秋の年2回行われる墓前祭では白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。

  • 大河ドラマの主人公
    山本八重(やまもと やえ)
    弘化2年~昭和7年(1845年~1932年)

    平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公としても有名な山本八重。ドラマでは、戊辰戦争での戦いで、鶴ヶ城から最新のスペンサー銃を手に新政府軍に応戦した姿が印象的な会津の女性です。 会津藩の砲術指南の山本家に生まれた八重は、娘時代にすでに白虎隊の少年たちに操銃を教えるほど、近代兵器である洋式小銃に精通していました。

    八重が24歳の頃、時代は大きく動きました。旧幕府軍と新政府軍の鳥羽伏見の戦いが始まり、幕府に忠義を尽くす会津藩は戦乱に巻き込まれていったのです。会津藩を討とうと新政府軍が会津若松に進軍したのは慶應4年(1868年)8月23日の早朝だったと言われています。
    八重は七連発のスペンサー銃を手に「妾(わたし)すなわち三郎だという気持で、その形見の装束を着て、一は主君のため、一は弟(鳥羽伏見の戦いで戦死)のため、命の限り戦う決心で、城に入りましたのでございます」と決意、男装で城に入ったそうです。

    鶴ヶ城籠城戦で最後まで奮戦した八重でしたが、藩主父子松平容保、喜徳は降伏を決意、9月22日に開城となりました。後に八重は城を去る前夜、三の丸の雑物庫の城壁に「戦の最中に〝十字架の死〝を見る あすの夜はいづくの誰かながむらむ 馴れしみ空に残す月影」と戦いに敗れた心情を記しました。

    鶴ヶ城から約500mの所にある八重の生誕の地(会津若松市米代)には、開城前夜に詠んだ歌が刻まれた「生誕地の碑」があります。また山本家の菩提寺・大龍寺(会津若松市慶山)には八重が建立した「墓碑があり、八重が書いたと言われる墓碑銘が刻まれています。

  • 薙刀の名手・娘子隊隊長
    中野竹子(なかの たけこ)
    弘化4年~明治元年(1847年~1868年)

    会津の城下全域が戦闘状態となり銃撃戦が始まる中で、薙刀を振るって戦う女性たちがいました。その名を「娘子隊(じょうしたい)」と言い、率いていたのが薙刀の名手・中野竹子でした。

    新政府軍が会津藩の拠点に攻め入ると、中野家の母・こう子、竹子、妹・優子は覚悟を決め、髪を切り、それを庭に埋めてから鶴ヶ城に向かいました。途中、有事の際は迎え撃とうと申し合わせていた仲間と合流し、「娘子隊」は誕生しました。当初は家老に従軍を懇願するも許されず、「叶わぬならば自決する」と言う彼女たちの熱意に折れて参戦が許されたそうです。

    竹子は出陣の際、「武士(もののふの) 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」と書いた短冊を自らの薙刀の柄に結び出陣。娘子隊一同は散切りにした頭に白羽二重の鉢巻きをして、同じ布の襷で裾をからげ、義経袴に大小刀を手挟み、薙刀で戦いました。彼女たちは、互いに声を掛け合い「生け捕られるな、恥辱を受けるな」と励まし合いながら戦ったと言います。しかし、竹子は敵兵が放った銃弾を頭に受けてしまいます。22歳の若さでした。
    一緒に参戦していた妹の優子はこの後、竹子を介錯し首を持って落ち延び、会津坂下町の法界寺に埋葬しました。また、殉節碑は竹子が敵弾に倒れた通称「涙橋」(柳橋)の近くの湯川橋(会津若松市神指町黒川)にあり、薙刀を手にした竹子の像を見ることができます。