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江戸城の無血開城後、会津藩は恭順の意を申し入れるが、新政府に受け入れられることはなかった。 1868年閏4月、東北諸藩も会津の正当性を訴えるも聞き入れられず、新政府軍の下参謀・世良修蔵を惨殺し、 東北や越後の諸藩が白河城に集まり、団結し抵抗することを表明。会津・東北を守るために、諸藩がたちあがった。 死を覚悟しても、最後まで”義”に殉じた奥羽越列藩同盟の戦いの軌跡を辿る。

01

棚倉城の跡地。奥羽越列藩同盟に加盟した棚倉藩は、板垣退助率いる新政府軍に敗れ、1866年6月24日に落城。城があった場所は現在は公園となり、本丸の堀・土塁、石垣、移築門のみが現存している。城跡内に県天然記念物の大ケヤキがある。

住所/福島県東白川郡棚倉町大字棚倉字城跡
http://www.town.tanagura.fukushima.jp/page/page000344.html

車で約1時間30分
02

湯長谷藩の陣屋(藩庁)があった場所。奥羽越列藩同盟に加盟した湯長谷藩は、各地に兵を送りこむも、やがて新政府軍に攻略される。 明治の廃藩置県により、廃藩となった。

住所/福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡25(磐崎中学校庭内)

車で約30分
03

磐城平藩の藩庁があった場所。奥羽越列藩同盟に加わった磐城平藩は、家老・上板助太夫を中心に奮闘。新政府軍を何度か撃退し、苦しめた。しかし激戦の末、1868年に落城。上板助太夫は城に火を放ち敗走。磐城平城の敗戦以降、新政府軍の北上を止めることができず、戦いの舞台は二本松藩に移されることになる。

住所/福島県いわき市平字旧城跡28番地
http://tairajyou.com/

車で約5分
04

磐城平藩の第五代藩主・安藤信正の墓所がある。戊辰戦争では藩を指揮し、新政府軍と戦うも敗れ、謹慎を余儀なくされた。良善寺は戊辰戦争の戦場ともなり、山門には今も銃弾の跡が確認できる。

住所/福島県いわき市平字古鍛冶町107

宿泊
2日目
05

中村城の跡地。相馬中村藩の藩庁があった。奥羽越列藩同盟に加盟した相馬中村藩は、新政府軍と戦うも敗戦。その後は新政府軍の拠点となった。城のあった場所は現在は公園となっており、大手門・石垣・土塁・堀のみが現存している。県指定史跡。

住所/福島県相馬市中村北町101

車で約15分
06

駒ヶ嶺城は、浜通り地方の最後の戦場。

住所/福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺

車で約1時間
07

新政府軍の世良修蔵の供養碑がある。奥羽鎮撫総督府下参謀として東北の地を訪れた世良は、仙台藩をはじめとした東北14藩が会津藩の救済を訴えるも、武力征討を強行に主張。その後、「東北を皆、敵と見て」と書かれた世良の手紙が発覚し、怒りを覚えた仙台藩士と福島藩士によって斬首された。この世良修蔵の暗殺が契機となり、奥羽越列藩同盟が成立したと言われる。

住所/福島県福島市宮町1−29
https://www.fukushima-inari.com/

車で約5分
08

福島城の跡地。福島藩の藩庁があった。 当初、福島城内にある長命寺に新政府軍の軍事局が設置されていた。しかし世良修蔵暗殺事件が起きると、今度は逆に奥羽越列藩同盟の総督府の軍事局が置かれることになる。福島城内は、世良が暗殺された場所でもあり、同時に奥羽越列藩同盟の契機ともなった、まさに、「東北戦争のはじまりの地」。現在は福島県庁となっている。県庁舎を見ながら、東北諸藩の様々な決断・覚悟を振り返り、旅を終える。

住所/ 福島県福島市杉妻町2-16